Incompatibilism「非両立論」 その3:帰結論証の擁護―非両立論の反論

こんにちは。ブログ主です。

 早速ですが、「A CONTEMPORARY INTRODUCTION TO FREE WILL」(ROBERT KANE 著)(OXFORD UNIVERSITY PRESS)を読み続けていく企画の続きです。

 前回は、同書第3章Incompatibilism「非両立論」の代表的見解である、ピーター・ファン・インワーゲン(Peter van Inwagen)が示したThe Consequence Argument(「帰結論証」、以下「帰結論証」として記します)に対するついて、両立論の立場からの異論について観ました。
 今回は、その帰結論証を擁護する非両立論の立場からの反論から観ていきたいと思います。

 著者のKANEは、非両立論者から以下のような反論があると示します。
 
 両立論者は、過去や自然法則を変えることはできないとしながらも、単純な日常の行動ならば、例えば、Mollyが彼女の手を挙げることと他のことを為しえたということ、つまり「もし彼女は他の仕方で行うことを選び、望むならば、彼女は彼女の手を上げること以外の他の仕方で行動したであろう。」(例えば、彼女は手をあげずに、彼女のわきに手をおき続けることができたなど)ということをもって、帰結論証の規則β

規則β:もし、いかなる者もXを変えるために出来ることが何もなければ、いかなる者もYはXの必然的な結果であるという事実を変えるためにできることは何もないし、その際には、いかなる者もYについても変えるためにできることは何もないということになる。

 について、論駁を加えるであろう。

 しかし、Mollyの手を挙げるという行為が、結局のところ過去や自然法則の結果であったならばどう考えるのか。
 両立論者は過去や自然法則は変えられないとしているではないか。
 つまり、「できる」とか「し得る」ということが、本当にそのように言えることなのか。
 このように、「できる」とか「し得る」というあり方はいくらでも反論にさらされるし、突っ込むところがある。
 一方で、規則βは、この「できる」とか「し得る」よりはるかにしっかりしていて、直観的に真であると考える。
 ゆえに、やはり帰結論証を支持する、と。

 著者のKANEはここでの問題点として、「できる」や「他のようにし得た」というような仮定的な分析は、時として、行動者が他のようにはできなかったであろうことは明らかであるような場合において、行動者が他のようにでき、あるいは他のようにできたであろうと示してしまうことがあるとします。
 ゆえに、仮定的分析は誤りに違いないということにもなるわけです。
 これに関して、KANEは、マイケル・マケナ(Michael McKenna)が示した例を引用しています。

 ダニエルは、小さいころ、ブロンドのラブラドール・レトリバーに怖い目にあった経験をしていて、いわゆるトラウマになっていて、ブロンドの髪の犬には触れない少女です。
 そのダニエルに次のような出来事がありました。
 彼女の16歳の誕生日に、彼女の父親は、彼女に、2匹の子犬を選ばせました。
 1匹はブロンドの髪のラブラドール、もう1匹は黒い髪のラブラドール。
父親はダニエルに好きな方を選ばせ、もう1匹はペットショップに戻すと言いました。
 ダニエルは、彼女が望んだこととして、黒のラブラドールを選びました。
(Micheal McKanna, “Compatibilism” in Edward N.Zalta, ed., The Stanford encyclopediaof Philosophy, online edition
: http://plato. Stanford.edu/archives/sum2004/entries/compatibilism/.
An objection of this kind was originally made by Keith Lehrer. (Chapter 3 脚注3))

 ダニエルは、黒のラブラドールを選ぶこと以外の「他のことをする」(彼女が他のことを「できた」)自由があったでしょう?
 マイケル・マケナはそういう自由はなかったとしています。
 トラウマになっている子供時代の経験という過去から、ダニエルはブロンドの髪のラブラドールに触れるという望みを形作ることさえできない。
 ゆえに、彼女は黒のラブラドールを選んだ、と。

 一方、「彼女は別のことを為しえた」という両立論者の仮定的分析は、次の場合に真でしょう。
 それは、「もし」ダニエルがブロンドの髪のラブラドールを選ぶことを望んだならば、その際に彼女はそうしたであろう、と。
 しかし、実際に彼女が他のようにすることができない場合(なぜなら、彼女は他のようにすることを望むことすらできない場合)、ダニエルは他のようにすることができた(もし彼女が望んだならば、彼女はそうしたであろう)ということが言えるのでしょうか。

 仮に、両立論的な仮定的分析をなおも推すということならば、に関する問題は、次のようである。「「もし」彼女が望んでいたならば、彼女は他のようにした「であろう」」と単純にいうことは十分ではない。さらに1つ加わらなければならない。それは、

「「そして」彼女が、別にすることを「また望むことができた」ならば」

 ということである。

 しかし、この非両立論の反論について、両立論は、その仮定的分析を用いて、「そのような望むことさえできない過去がなかったならば」は、行動者が他のようにすることを「望みあるいは選ぶ(あるいは意志する)」ことができたであろうということになります。
 それに対して、非両立論の立場は、そういうことさえ望むことができない、望むことさえできないということさえ気づかずに選択していたならば…。
 と、非両立論と両立論は交互にずっと反論し続けることになります。
 つまり、無限退行になります。

 KANEは、この「できる」「他のようになし得た」という点に関して、帰結論証をめぐる議論は行き詰まりに至ってしまうとします。
 そして、古典的両立論者たちが打ち出した「できる」「他のようになし得た」という分析について、現代の多くの両立論者は不完全であることを認めざるを得ないであろうとします。
 同時に、古典的な両立論者が示した以上に「他のようになし得た」ということについてよりよい説明を与えることは、現代の両立論者の役割でもあるとします。
 そして、KANEは本書の中で改めて現代の両立論者によるこれらのことへの取り組みを取り上げるとしています。

 ところで、ここまでお読みいただきましたみなさんは、「変えられないこと」と「変えられる」ことをどう折り合いをつけていますか?どう向かい合っています?
 そもそも、皆さんにとって「変えられること」とは何でしょうか?「変えられないこと」とは何でしょうか?

 ということで、次回から第4章に入り、自由意志やそれにまつわる話題についてKANEが述べているところを観ていきます。

 今回はこんなところです。
 ここまでお付き合いいただきありがとうございました。また、来週に。