哲学とはなにか・その3



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前回の記事では、これまでと同様に、バートランド・ラッセル『哲学入門』の一節を引用しながら、哲学と他の学問との違い、そしてその違いゆえに、「哲学とはこれだ!」とは簡単には言いえないものなのだ、ということを記しました。

また、それゆえにこそ、哲学の役割が問われるのだ、というお話でした。

哲学の役割とは何か?


では、哲学の役割とは何なのでしょうか。
これまで同様に、バートランド・ラッセルの言を借りると、彼は、次のように述べています。


「それゆえ、哲学の価値に関する議論を次のようにまとめてよいだろう。問いに対して明確な解答を得るために哲学を学ぶのではない。なぜなら、明確な解答は概して、それが正しいということを知りえないようなものだからである。むしろ問いそのものを目的として哲学を学ぶのである。なぜならそれらの問いは、「何がありうるか」に関する考えをおしひろげ、知的想像力を豊かにし、多面的な考察から心を閉ざしてしまう独断的な確信を減らすからだ。そして何より、哲学が観想する宇宙の偉大さを通じて、心もまた偉大になり、心にとって最もよいものである宇宙と一つになれるからである。」
(バートランド・ラッセル『哲学入門』 高村訳、ちくま学芸文庫/195ページ)


前回の記事で記したように、個別具体的な学問が取り扱うようなことではないこと、でも、人間の精神生活にとって最も深い関心を呼ぶものも含めて、人間には簡単には解決できないと認めざるをえない問題が数多く存在するわけです。

「なぜ生きるのか」「自分とは何か」「心とは何か」
「自由とは何か」「運命とは何か」「善悪とは何か」・・・


こうした問題に対して、哲学者たちが与えてきた答えは、必ずしもその正しさを論証できないものだったかと思います。

しかし、ラッセルは、答えを明示することが哲学の目的ではないと言うのです。むしろ、疑問・問いそのものに目的があるとしています。
そうすることで、私たち一人一人の心についておのずと気づきを得て、自らの人生を築いていくことなのだ、ラッセルは言っているのではないでしょうか。

つまり、人間の日々の内面のことから宇宙に対する思索的な関心まで、細々とであっても思索を活かし、続けていくことこそ、「哲学をする」ということではないでしょうか。


では、「細々とであっても思索を活かし、続けていくこと」というのはどういうことなのでしょうか。


(つづく)


*Written by A.KOBAYASHI